生活のリアリティを削ぎ落とした先にあるもの

 

北海道のような比較的環境負荷の大きい積雪寒冷地においては、小さな失敗が建築の崩壊につながると言っても大げさではない。そうした環境の中で快適な住まいを求めて、先輩建築家たちは工務店、技術者、メーカー、研究者、そして施主との協働による幾多の試行錯誤を通して、断熱通気工法、外断熱工法、ブロック造の北方住宅、無落雪フラットルーフなどの技術や知恵を発明し、それらを共有しながら、新しい北方住宅を提案してきた。こうした蓄積の恩恵を最大限に享受していることを認めつつも、あえて言えば、ある程度合理的で問題の起こらない方法が見つかり、社会に浸透した時、建築の発明は停滞をはじめる。疑いもなく従来のやり方を踏襲し本来の目的が見失われていく。だからこそ、成熟期を迎えたと思われる最適化されたシステムに対し、それは本当は誰のための、何を生み出すデザインなのか、常に問い直さねばならない。

 

『伊達の家』の成り立ち

一般的に建物の外皮(外壁や屋根)は、防水層、通気層、断熱層、防湿層などの複数のレイヤーが、150400mm程の厚みの中に納められている。『伊達の家』は、外壁を構成する幾重ものレイヤーを分解し、温熱環境的な性能を維持しつつ立体的に再配置することで、新たな建築の成り立ちを示そうとした実験的な住宅である。具体的には、防水層と断熱層を引き剥がし、壁の中に隠されていた通気層を、北方住宅の新たな空間要素として見出した。

折板屋根を載せた作業場のような佇まいの鉄骨造の覆屋(以下、覆屋)の中に、断熱された木造二階建ての小屋(以下、木箱)が入れ子になっている。覆屋の扉をくぐり最初に入る空間は、風除室を兼ねる奥行き2m程の土間だ。木箱を挟んで反対側には、庭に面した奥行き4m程の土間がある。覆屋の妻面に設けられた軽やかな単板ガラスのカーテンウォールから、光や町の風景が入り込んでくる。外部のように明るく、いろいろな使い方を喚起させるおおらかな空間だ。空気層が2つの土間を含め、覆屋と木箱の間にぐるりとあるので空気が動き、光が巡るのを感じる。大きな気積の中にいること、それがごく薄い皮膜によって囲い取られているということは、音の広がりでわかる。外部との距離感に与える音の影響は案外大きい。ここは極めて外に近い。その土間を通って木箱に入る。一階は凍結深度分だけ地下に埋まったユーティリティと寝室で、二階はキッチンのあるワンルームである。それぞれの室は決して大きくないが、土間空間に向かって設けられたアルミサッシの開口が、空間の広がりや光の状態を調整しており、外部と連続しているような開放感がある。もちろん、一般的な温熱環境が担保されたこの木箱で生活を完結することもできるので、土間空間は言わば大きな余剰でありプレゼントである。

覆屋と木箱は、それぞれの役割分担に必要な最小限の設えだけを備える。覆屋は、外壁下地を留める胴縁やブレース、下地のプラスターボードがあらわしで、木箱の外側はロックウール断熱材がピンで留めつけられただけ。外断熱だから、内部は木造軸組あらわしである。むき出しのロックウールボードは土間空間の使い方を制限してしまうような気もするが、あくまでも引き剥がされた壁の内部として表現されている。土間空間を、内外をつなぐ享楽的な空間に仕立てることもできそうだが、通気層であるという以上の意味が付与されないよう、注意深く仕上げや外部との関係が調整されている。

それはなぜか。私はそのことに戸惑っていた。この建築には、建築の成り立ちに準じた表現だけがあり、生活のリアリティに対するなんらの配慮もないように思われた。むき出しのグラスウールボードとフレキ板に囲まれたスペースにはどんな生活のリアリティがあるのだろうか、にわかにはわからず、そのことについてずっと考えていた。

 

生活のリアリティに対する姿勢

青木さんは、リノベーション作品である『調布の家』を発表するにあたり、「生きられる空間を設計したい*」と宣言し、解説文の中で、計画と経験の間にある時間的な断絶を無批判に受け入れることは「ある時点のみに対して最適化された事柄が、住み手の生活を先導してしまうような、ある種の閉塞感を助長させる**」と述べ違和を表明している。既存の建物は、長い時間の中で刻まれた生活のリアリティや様々な記憶の断片に溢れている。それらに対する愛着や執着を持つ一方で、いや、だからこそ、それらによって新たに始まる生活の自由が制限されるのは避けたい。

そのために、すでに刻まれた生活のリアリティや記憶の断片を、消し去ることはせず、だけれども生活を先導するものにならないように注意深く、膨大な作為を入れ込むことで抽象化し相対化した。もっと言えば、それはひたすら染み付いた生活のリアリティを削ぎ落とす行為であった。空間への現れ方はだいぶ異なるが、『伊達の家』に初めて訪れた時に感じた、生活のリアリティが削ぎ落とされた感じは、同じものを志向した結果であることがわかる。なるべく生活のリアリティが生じないようにすることで、住まい手の主体性を引き出し、伸びやかに空間を上書きできるような余地を最大化することだ。

 

エレメントの再設定

『伊達の家』の場合、そのための抽象化の作業は、単に仕上げる、仕上げない、の対比というより、仕上げ、造作、構造などのあらゆる区別自体を無くそうとしていると言ったほうが近いのかもしれない。部材の取り合いとその見せ方は、建築の成り立ちに準じているために、造り付け家具など生活の具体的なきっかけになりそうなものは、付加物に見えないようにする配慮がなされている。例えば、軸組あらわしの木箱に設えられた棚状の横板は、その厚みを間柱の見つけよりも大きくすることで、単なる棚であることを拒んでいるように見える。木箱と外部階段をつなぐブリッジの手すりはスケールアウトしていることで、手すりに肘をついて土間空間を上から眺める、といったような陳腐なイメージは拒まれ、土間に浮かぶひとつの独立した居場所としてあることを欲しているかのようだ。庭では、構造的に独立したオブジェのような鉄骨階段が目を引く。階段へは、木箱の二階から土間空間を横切る先述のブリッジを通してのみアクセスが許され、庭へ投げ出されるようダイナミックに上空を迂回して屋上テラスに達する。

エレメントを再設定することで、それぞれが自律的に自由に振る舞うことができる、というのは、何も外壁に限ったことではなく、この建築全体のルーズさと楽しさに繋がっている。こうしたエレメントは断片化されているというよりは、それぞれのエレメント間の関係がぎりぎりまで引き伸ばされている、といった方がしっくりくる。その結果、エレメントそれ自体の自律した意味が強まると同時に、他のエレメントや環境との豊かな関係が生まれている。断片化というと、エレメント相互の関係を弱めているようにも聞こえるが、『伊達の家』で感じたのは、エレメント間の距離が引き伸ばされたことによって、意味が豊穣になるという逆説であった。

 

冬の朝、はりつめた空気の中で読書にふける豊かさだってあるだろう。外の音に耳を澄ませたり、音楽をかけたり、日光浴をしたり。快適温度なんて誰が決めたのか。環境のムラや差異のなかにある豊かさを、声高に叫んでよいはずなのだ。青木さんが見出した空気層は、そんな人間の衝動を許容する、極めておおらかな空間であったのだ。ちょうどそんなことを考えていた頃に、施主の持ち物が入った後の写真を拝見する機会があった。そこに写っている、何とも享楽的で生き生きとした、逞しい空間に感動を覚えた。恥ずかしながら、最初からこの状態に立ち会ってしまったなら、私はこんなに色々と考えることはできなかっただろう。

青木さんは人間を信頼している。そこに住まう人たちの主体性を信頼している。住まい手を試すようにさえ見えるそのそぶりは、人間の主体性に対する信頼の表明であり、生きられる家を設計せんとする青木さんの一貫した試みであることを理解し、今まったく別の建築として私の前に『伊達の家』がある。

 

【注】
※1:10+1website  http://10plus1.jp/monthly/2015/02/issue-02.php
※2:10+1website  http://10plus1.jp/monthly/2015/02/issue-02.php

 

【著者プロフィール】
宮城島崇人(みやぎしま たかひと)
1986年北海道生まれ/2011年 東京工業大学大学院修士課程修了/2011年~北海道大学国際広報メディア・観光学院 博士課程/2011年 マドリード建築大学(ETSAM)奨学生/2013年 宮城島崇人建築設計事務所 設立/主な作品:「丘のまち交流館”bi.yell”」/主な受賞歴:2016年北海道赤レンガ建築奨励賞

『伊達の家』についてはこちらを参照

−−−−−−−−−−−

※写真:永井杏奈

−−−−−−−−−−−

Edited by Shinichi KAWAKATSU