「ART PHOTO TOKYO」は、茅場町という証券取引所がある場所として誰もがなんとなく知ってはいるけれど多くの人は降りた事すらない街に、たった4日間だけあらわれ消えていった蜃気楼のような空間である。より具体的には、再開発のために建て壊しが決まったオフィスビルを、元木大輔が写真を展示するための空間へと変容させたものだ。

4日間しか存在しなかったため、見た事がない人も多いだろうが、蜃気楼は蜃気楼のまま残しておきたいので展覧会全体の解説はしない。そもそも大枠の解説は設計者の元木自身がHPに書いている。そこで、ここでは「ART PHOTO TOKYO」が示した、なにかを展示するための空間をつくる際に重要なふたつのことについて書きたいと思う。

地下鉄茅場町駅の12番出口を出るといきなりそれはあらわれる。薄暗い交差点に(取引所が15時で閉まるため、茅場町は夜になるとゴーストタウンのようになる街である)ひとつだけ煌々と輝くビルが見える。ガラス張りの1階部分は写真撮影用の照明で昼間のように真っ白に照らされ、エントランスには金色に輝く派手なゲートが待ち構えている。ご丁寧にもゲートの両側には黒服まで立っており、このド派手なゲートは仮設工事用の単管足場を金メッキしたもので、結論から先に言ってしまえば、ここで元木が新たにデザインしているのはこの金色のパイプだけである。

 


金メッキパイプが設置されたゲート(写真提供:DDAA)

 

数日間しか存在しない展示スペースにゲートがあること。ガラス張りで街に繋がる一等地にも関わらず、 1階には展示室を設けずに、エントランスとしてしか使用していないこと。これらはもちろん、闇雲に設けられた訳ではない。これらの一見無駄に見える操作によって「この先は特別な世界が待っていますよ」と鑑賞者に暗に示している。いってみれば、金色の単管足場はハリウッド映画の冒頭シーンのようなものだ。最初にがつんとその世界観を見せてしまい、一気に観客を引き込むあの映像である。

例えばダークナイト(2008)の冒頭部分、銀行強盗に成功したジョーカーが仲間同士を殺し合わせて分け前を独占、さらにはその場で実は最も凶悪だったウィリアム・フィクトナー扮する支店長をも消したあと、ジョーカー自ら運転する黄色いスクールバスが街に紛れて行く、あの残酷なまでの晴れやかさを思い出してみればいい。この完璧なオープニングは、そのまま、誰がヒーロー=正義なのかということを原理的には誰にも決める事ができないという、あの映画の世界観を完璧に表現している。そしてより重要なのは、この数分のシーンで子供向きだと思われていたコミック映画のイメージを完全に払拭し、その独特の世界観に観客を完全に引き込んでしまうことだ。

ガヤガヤと騒がしいロビーを抜け、忌々しい映画泥棒もようやく終わり、コーラとポップコーン片手に現実世界から映画の世界へと一気に入っていくタイトルが出るまでのあの数分間。映画はこのわずかな時間で観客の心を(リ)セットしなければならない。

 

ところで、スマートフォンとインスタグラムなどのプラットフォームの普及によって、写真は今や誰もが撮り、さらには世界中に発信できるメディアとして大きく変貌を遂げた。機材の進化もあって、誰でもある程度は撮れてしまうし、ネット上ではどの写真も並列に扱われてしまう以上、現在の写真は何が作品たらしめているかということを決める決定的な基準が存在するとは言い難い状態にある。特に、今回はいわゆるアートとしての写真だけではなく、ファッションやコマーシャルの写真も同時に展示されている。だからこそ、展示空間自体ではなく、その一歩手前で、これ以降に見えるものは作品なんだよと鑑賞者の気持ちを(リ)セットしなければ、鑑賞者は常に「これは作品なのか否か」という疑念にさらされながら作品を見なければならない事態に陥ってしまう。

 

「ART PHOTO TOKYO」展示会場風景(写真提供:DDAA)

 

展示空間は、よく言われているように、無色透明でニュートラルな存在であることが求められる一方で、額縁として機能することも求められる(★1)。「額縁として機能する」というのは分かりにくいかも知れないが、有り体に言ってしまえば、展示物をよりよく見せるための空間であることが求められるということだ。よりよく見せるということはニュートラルではない。だから、このふたつは相反している。そして、青木淳が看破したように、ホワイトキューブはそのふたつの矛盾を利用し、一方でニュートラルな、一方で(そこに置きさえすれば作品に見えるという意味で)よりよく見せるための空間として機能している。世界中の美術館でアイコンが求められるのはひとつにはそのためだ。日本ではニュートラルな空間についての議論は盛んだが(そしてアイコン批判は方々で叫ばれているが)、もうひとつの額縁としての機能――いかにしてそれを作品たらしめるのか――という議論が驚くほど抜け落ちている。そして、ART PHOTO TOKYOでは黄金のゲートをつくるという馬鹿馬鹿しいほど正直なかたちでこの問題に答えているのである。

他方、こちらはおなじみの議論だが、上述したように展示する空間は可能なかぎりニュートラルな空間が望まれる。空間はあくまで背景であり、空間の主張が激しいと作品よりも空間の方が気になってしまい、鑑賞する際のノイズになってしまうからだ。理想なのは余計な意味を発しない空間、いわば無意味な空間だろう。しかしながらこれを実現させるのは極めて難しい。というよりできない。空間が持つ意味は、その時代や背景によって変化するし、鑑賞者によっても感じ方が変わってしまうからだ(ホワイトキューブでさえ万能ではなく、例えばレンブラントやフェルメールのようなバロック絵画をホワイトキューブに置けば現代美術との対比という余計な意味が発生してしまう。暗色の壁紙の前の額縁の中に収まっていたほうが余程ニュートラルに感じられるだろう)。また、今回のように、先立ってすでにある建築物の中に展示空間をつくる場合には、その建物自体になにかしらの意味がすでに貼りついてしまっているために、せめてその意味を消去しようということになる。その際、最悪なのは覆い隠してしまうこと、より正確には、隠そうとしたにも関わらず、隠しきれずに隠そうとした痕跡が露呈してしまうことだ。隙間から漏れる下地や養生テープ、仮設壁にありがちな不陸やシートの継ぎ目。これらの存在によって、せっかく(リ)セットした鑑賞者の気持ちは容易く現実に引き戻されてしまう。展示空間は多かれ少なかれこの問題に直面する。

では、どうするか? 冒頭で述べたように、ART PHOTO TOKYOでは、基本的に金のゲート以外はかたちあるものをデザインしてはいない。展示室は、床、壁、天井その他、空間そのものはすべて既存のものがそのままの状態で残されている。ただ、そこにあったモノだけが絶妙なかたちで移動させられている。ある部屋の中央には、そこがオフィスだった時に使われていただろうLANケーブルや電源コードがまとめられている。ある部屋には、さまざまな種類の事務用の椅子がまとめられている。またある部屋には事務机が無造作に積まれ、どこかから外されたであろうドアが立てかけられ、パーテーションとして使用されている。ともかく、そこにあったであろう、あらゆるものは一旦元の位置からは引き剥がされた後、基本的に部屋の中央に無造作に集められている。そして写真は空いた周囲の壁に展示される。

 

「ART PHOTO TOKYO」展示会場風景(写真提供:DDAA)

 

要は元木はここで「引っ越しの際のものがなくなった状態」を捏造している。新しく入居する真新しい建物に心踊りつつも、モノが運び出されて完全に片付いた古い建物の方にハッとする瞬間。いわば、あのモノがなくなった後に、急に浮かび上がってくるある種の冷酷な爽やかさこそを捏造している。あらゆる建物は、そこで人が暮らしはじめると共にモノがそこに定着され、どこか温かみのある生き物のような状態になる。だから、そのモノをすべて運び出すことは、生き物としての建築からその皮膚を引き剥がすようなものであり、完全にそれらモノがなくなると一旦生き物としての建築は死んでしまう。だからこそ、そこには残酷で冷徹な爽やかさがある。そしてこの冷徹さはそのまま、意味のないニュートラルな状態を仮構することにもなる。だから、展示室として完璧な状態になる。しかしその冷たさは、人々が再び使う素振りを見せた瞬間に儚く消えてしまうだろう。だから、一般化することはできない。ただ幸いなことに、4日間だけのこのイベントの目的とは完璧に一致している。そしてこれは、ある瞬間を切り取り定着される写真というメディアの展覧会ではなかったか。

★1:青木淳、「JUN AOKI COMPLETE WORKS |3| 2005-2014」、LIXIL出版、2016年、018p~019p。

 

【著者プロフィール】
浅子佳英(あさこ・よしひで)

1972年神戸市生まれ。建築家、デザイナー。2010 年東浩紀と共にコンテクスチュアズ設立、2012年退社。主な作品に「gray」(2015)。著書に『TOKYO インテリアツアー』(共著、LIXIL 出版、2016)など
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※写真:kenta hasegawa

 

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Edited by Shinichi KAWAKATSU